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デリダ『死を与える』からの連想

 久しぶりにデリダなど読んでいる。『死を与える』(ちくま学芸文庫)では、キリスト教あるいはユダヤ教、あるいは宗教に特有な普遍と内面の問題について論じている。

 中心となるモチーフは、我が子イサクを生贄にしようとしたアブラハムの物語。父は子に自分がしようとしていることを弁解できない。それを言ってしまえば、神を裏切ることになる。しかし、神への義務を履行すれば、道徳的義務、世間に対する義務を裏切ることになる。

 ここから、神という絶対的他者から、他者一般に対する論理が一気に展開される。誰かの命令や法に従うことによって、別の義務を放棄してしまうことは日常に溢れている。両親や配偶者の命令、会社の方針、社会人としてのルール、それらに従うことによって外に属する他者に対する義務がなおざりにされてしまう可能性、誰もが逃れられない厳しい可能性をデリダは指摘している。

 次々に引用される思想家や作家は、デリダ作品に馴染みの魅力的な人達だが、なかでもやはりカフカが気になる(「秘密の文学」)。カフカはこの5年、ずっと気になっている作家である。父と子の関係、言いたくても言えない状況。以下は連想によるメモ。

 ある話し方しか許さない場がある。決められた正論しか言えない場、虚偽しか言えない場。饒舌だった人間が、黙りこくる。我々の日常にも至る所にそうした場が存在しているだろう。

 距離は近くても、断片的な情報を基にした空想によってしか語れない空想の国。その国がその国でなくなったときにしか、その真の姿が語られないであろう不可能性。言葉が異なるというより、言葉そのものの成り立つ条件が異なるのだ。

 なぜあの山に女が登れないのか。よそから来た、あるいは鈍感な人が、いとも軽々と言いのけてしまう。しかし、その言葉は、憧れたような効果を果たしはしない。カフカ的世界。解決のための言葉さえ発すれば、世界はいとも簡単に変わるように思える。あの言葉さえ言えばいいのに!しかし、決して、決して変えられないことがあまりにも自明であるから、言葉は発せられなかったことにようやく気付く。

 女子の相続の議論は象徴的かもしれない。歴史をたどれば一人の父から生まれたことを主張する国、しかし同時に、父はいてもいないように振る舞うことを義務づけられている。この矛盾。どちらを否定するかだけの問題とは考えられないか?そして父の存在感だけが強調された国、かつて父と崇めた国を脅威に感じている。
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テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

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非公開コメント

待望の復活ですね。

なんというか、普段はだらしない背筋が伸びるようなおもいです。

早速のお越しを有り難う

 うまいこと言ってくれますね。
 こういうことを書けるのもこういう場だからこそ、ということで。普段はゆるみきってます。
 またたまに、のぞいてください。
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東麻布在住のオトコ

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