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平均年齢40歳超の湯河原温泉合宿

 この週末は、湯河原の温泉宿で麻雀合宿。リゾート踊り子号グリーン車の一人座席で、東京駅から湯河原駅までは70分程度の快適な旅。普段はグリーン車なんて乗ることないが、友人が気を利かせて取ってくれた。トイレも広くてびっくり。グリーン席を取れなかった別の友人は、普通指定車両のボックス席で団体客の酒盛りに巻き込まれ、一升瓶から日本酒をこぼされたりして散々だったらしい。どうやら常磐線方面からの団体らしく、茨城県出身の僕は納得。最近は知らないが、常磐線は普通電車での酒盛りが珍しくなかった。

 湯河原駅に到着し、小田原経由で来た友人と合流し、4人が揃う。駅のそばで、最近の名物だと思うが「担々焼きそば」を食べる。普通の焼きそばより、ピリ辛な味がする。2日目の日曜日に行った、山の斜面に四千本の梅が咲く「梅の宴」など、新たな観光目的創出に力を入れているようだ。梅のシーズンのせいだろうが、何年か前に行ったときに比べて活気を感じた。焼きそばに話を戻すが、僕はさっと全部食べてしまったが、量が多かったらしく、しばらく経って他の3人はかなり残していた。あまりのスピードに驚嘆される。途中、またやっちまったと思ったがすでに残り少なく仕方ない。僕は早食いの傾向があって、改まった会食でもない限り、他の人のペースも見ずに食べてしまうから、こんなことがよく起きる。しかし、みんな僕よりずっと体格がいい気がするのだが、完食できないとは情けない限りである。麻雀勝負ももらったようなものだ。

 今回の宿、光陽館には15時頃に到着し、風呂も入らず早速麻雀。宿の麻雀室に全自動麻雀卓が1卓あり、使用料は宿代別で1万円。トイレや湯沸かし施設がないのが残念だが、貸し切りの広い部屋だし、全自動卓もきれいで勝負に専念できる。20時に部屋へ戻り、夕食。舟盛り付きにしたし、値段相応でまあ納得。この辺は魚がおいしい。その後、ようやく源泉掛け流しの温泉に入り、麻雀再開。酒を飲みながら、麻雀は朝の5時まで続き、2時間ほど寝たのか寝ないのかくらいの睡眠を取ったが、朝食ではどの顔も疲労が色濃かった。

 このメンバーでの旅行は1年ぶりだが、なかなか得難い貴重な機会になっている。もともとインターネット麻雀を通じて知り合い、いつの間にか10年以上の長い付き合いになる。長い付き合いなのでリラックスできるが、相手の社会的背景を知っているわけではない。子供がたまたま公園に行って仲良くなった友達のように、非常にフラットな関係だ。だからこそ、いろいろなことを気づかせてくれる。例えば、お互いの食の好み全般についての話になる。こういうことを話す機会は、僕には意外と少ない。女性ならば、友人同士で洒落たレストランへ行って、自然と互いの食の好みについて語る機会も多いだろうが、男はせいぜいあっちのラーメンの方がうまいとかそんな話が多いのではないだろうか。それに、だんだん人間関係が固定してしまっていて、家族はもとより、学生時代の友人と今になって互いの好みを語ることも少ない。今回のメンバーは、食の好みを話すのにちょうどいい関係という種類の関係ということだ。

 もっとも、僕以外の3人は、普段から全国のいろいろなところに行っていて、食べ物のことに詳しいことがその理由かもしれない。また、味覚が僕よりずっと確かだ。色々話している中で、僕は結局、自らの舌ではなく、ストーリーや文脈でおいしさを感じているのだと思い当たった。誰かがおいしいとこまやかに描写してくれた食べ物は、とても食べたくなるし、味がそれなりでも満足してしまう。それだから、食に関する随筆を読むのが好きで、最近出た『食魔 岡本かの子食文学傑作選』(講談社文芸文庫)をとても興味深く読んでいる。特に短編『鮨』は、偏食でものがほとんど食べられない子供が、母親の手で握った寿司をきっかけにものが食べられるようになった話である。これについては、また項を改めて書いてみたい。僕も子供の頃に偏食で少食だったのだが、この話とは逆で、特に誰かの手で握られた寿司やおにぎりといったものが食べられなかったからである。しかし、今ではそれも直り、昨年の宿で出され、誰もが手をつけなかった山鳥の骨っぽいつくねを平らげたことから、僕は何でも食べられる、いやむしろ下手物であればあるほど食べるらしいという印象を与えているようだ。

 もうひとつ思い当たったのは、食べ物の好みを聞かれ、僕もうーんと考えながら答えるのだが、相手から「じゃあ何々が好きなんだね」と確認されると「でも、最近は尿酸値が高くて食べられなくて」と言い訳めいた留保をつけてしまうことだ。尿酸値や血圧が高くて食事に配慮しているのは事実なのだが、以前、職場でちょうど今の僕と同じくらいの年頃の先輩がいた。もともと人付き合いが極端に苦手な人だったが、休日の家での過ごし方を尋ねると自信なげに何か答えた後に、必ず「母親が好きだから」とか「母親の方針だから」と付け加えていた。独身で母親と二人暮らしの人だったが、単なるマザコンというわけでもなかったと思う。病気であれ母親であれ、自らの好みについて、自分以外の何かから仕方なく強制されていると弁明して価値判断を留保することは、自我の基盤が何らかの理由で脆弱になっている現れではなかろうか。食べ物の好みは個人の価値判断に属するもので、いいも悪いもない。好きか嫌いかである。例えば清少納言の枕草子は、自らの価値判断の総体、極端に言えば「あれは好き、これは嫌い」ということの集合によって、自らの内面世界と外部世界の関係を示したものとも読めるだろう。3歳になったばかりの娘は、好き嫌いを決然と言う。ある年代の男女は、恋愛対象の美醜について好き嫌いを言う人が多いだろう。そういう好みを素直に言えなくなった自分は、何かがおかしいのではないのかとふと思った。
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おつかれまさでした。

手で握った云々ということで思い出しました。
自分は、小学校4年生の夏休みに瀬戸内海の島にしばらく滞在していました。
その島は、うちに住み込みで働いていた女性の生家で、連れて行ったもらったのです。

滞在中、お世話になっていた家の親戚一同で船で潮干狩りに出かけました。
その船の中で、連れて行ってくれた人のお姉さんがおにぎりをつくってくれたのですが
具も海苔もなかったのです。
白いごはんだけのおにぎりを見て、子供心にケチだなと食べる前はおもったのですが
そのお姉さんが優雅に船から手を伸ばして(そういうことができる大きさの船でした)、手を海水を漬けて、ごはんを握っていたのです。
海水の塩分が塩がわりということです。
これがうまかった。
そういうことをしても違和感がないほど当時の海はきれいだったという話でもあり
こういう話をするほど年をとってしまったともいえるんだけど
おにぎりが好きなのは、これが原体験なのかも。



ようやく理解しました・・・

日本に帰ってきてから、
好きか嫌いかをはっきり言わない方の存在に気づき、
そういう方に遭遇するとフラストレーションを感じていたのですが、
今日のお話を伺いながら、
その裏にはそんなメカニズムが働いているのかあ、
とちょっと理解が深まった気がしました。

そういう方に対して、批判的になるのではなく
そういう風に働いてしまう心理学がある、
ということで、受けとめてゆこうと思います。

そういう行動の裏側にある気持ちを教えて下さり、
ありがとうございました!!
 

>かめどらさん
 非常に興味深い、貴重な話をありがとうございます。まさにこういう話を求めて、僕は食に関する本を読んでいるわけです。この話は、冗談ではなく、どこかに書き残しておくべき話だと思います。
 海水で味付けするという発想に意表をつかれたし、食と母性(海だし)の関係、どこかエロチックなイメージとノスタルジー、味わい深い話です。これからおにぎりを見るたびに思い出すでしょう。

>Graceさん
 こちらこそありがとうございます。Graceさんがコメントしてくれたおかげで、また思い当たることがありましたし、自分の見えなかった部分についても少し安心を覚えることができました。
 
 Grace さんのお話とレベルが違う話かもしれませんが、以前受けたTOEFLのスピーキングで「何々のどちらが好きか答えなさい」という種類の問題で、困惑しているうちに時間がなくなり答えられない、あるいは気恥ずかしさを感じてしまいます。僕の英語力が低いことが主要因ですが、その他の理由もあったのかもしれません。英語では、好き嫌いの表現をすることが多いのでしょうか。

 今回のエピソードについては、自分にとっても意外な発見だったので、折に触れて別の面から考えてみたいと思っています。
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東麻布在住のオトコ

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