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ちょっとした邂逅で

 先々週の週末、初めて沖縄へ行った。帰りの那覇空港の待合い席で、どこか見覚えのある男性が目にとまった。黒いあごひげと対照的な薄い頭髪が印象的である。年齢は50歳代くらいだろうが、もっと若いと言われても納得できる。名前はもちろん、どこで会ったのかも覚えていない。ただ、ユーモラスな風貌に似合わず、物腰が固い印象だったという、漠然としたイメージだけが残っている。それは、一対一で話したのではなく、恐らく仕事で講演などに来てもらったからだと見当を付け、記憶をたどってみたが、なかなかぴったり来ない。だいぶ考えた結果、確証は得られないが自分の中で一番しっくり来た結論は、大学2年のときのドイツ語の先生だった。

 僕はその授業に1,2回しか出ていなかったし、授業内容はまったく覚えていない。それで、先生の第一印象だけを漠然と覚えていたのかもしれない。デューラーに関する評論がテキストだったので、本来は美学を専攻している先生だったのだろう。僕は図書館でテキストの翻訳を見つけ出し、その内容を覚えていたので、ドイツ語がほとんどできないのにもかかわらず試験は優だった。ドイツ語は今も全然わからないが、デューラーは好きになった。先生は待合い席でテレビ(民放の歴史謎解きもの)を熱心に見ており、よく見えないからか、こちらのすぐ近く、前の席まで移ってきた。やがて搭乗手続きが始まり僕と家族は席を立ったが、チケットを機械に通して後ろを振り返ると、まばらになった待合い席で先生はまだテレビを見ていた。

 今日は仕事の関係で、有明へ行ってきた。そこでも見覚えのある顔がいた。今度は誰だかすぐにわかったが、大学で学科が一緒だったK君だった。卒業以来会ってないが、新聞社に勤めているはずだ。声をかけたかったが、取材中のようだったので遠慮しているうちに見失ってしまった。K君とは特別に親しかったわけではない。麻雀くらいは一緒にやったような気もするが、基本的にはクラスが一緒だったくらいの感覚だ。

 学生時代の記憶は不思議だ。最近のことなら忘れてしまうようなささいな出来事や、ちょっとした相手のことでもよく覚えていることがある。もう20年近く前になるのに、つい少し前のような錯覚に陥ることがある。それどころか、場合によっては、2,3年前のことよりも、学生時代の記憶の方が最近に感じることさえある。心的感覚が近いからなのか、単に僕の老化現象からなのか。

 一方で、こんな風に理由を考えることがある。時間のとらえ方と記憶の定着の形式として、線的思考の弊害である。小学校→中学校→高校→大学という期間は、その期間を一本の線として思考する傾向が非常に強いのではないだろうか。たいていは大学を卒業すれば、「社会人」としてのびきった時間感覚があるだけである。それは線的思考になじまない。だが、小学校から大学までは多くの人が共通して経験するコースだから、一本の線として意識されやすい。日本史年表の「平安時代」「江戸時代」のように、「中学時代」「高校時代」として、時間の便宜的な区切りとそれに対応する出来事の記憶が定着しやすいのではないだろうか。一方で、社会人になれば人生が多様になるから、線的思考は難しくなる。歴史の勉強でも、中国の五代十国とか線的に一本にならない時代は、イメージとして捉えにくかった記憶がある。

 社会人になってからも線的思考の呪縛は強いし、官僚的組織に入れば、線的思考を延長していくこともできるかもしれない。しかし、それはやがて訪れる終わりを先延ばしをしているだけのように思う。ヘーゲルやらフクヤマなどを持ち出すつもりはないが、一本の線で人生を捉えてしまうと、発展を目指して線がつながっているうちはいいが、何らかの途切れや挫折があったりすると、そこへ戻って人生をやり直さなくてはいけないような思考に陥ってしまう。

 だから線的思考ではなくて、いつでも中心が始まる円のような思考がいいのではないかと最近考える。僕の好きなニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』で、まさに円の思考が語られるくだりは、僕の好きな部分の一つだった。その部分の引用を『愚者の機械学』に見つけたとき以来、種村季弘は僕の好きな作家になった。

 「いかなる瞬間にも存在は始まっている。いかなるここの周囲にもかしこの球体がめぐっている。中心はいたるところにある。永遠の通る道は曲がっているのだ(種村季弘「愚者の機械学」中の翻訳)」。

 ニーチェもカフカもベンヤミンも、好きな作家をドイツ語で読みたくなっても、僕は読むことができない。大学のときに戻って、きちんとドイツ語を勉強できたらよかったのにと後悔する。少年老いやすく、なんて文句が頭で繰り返される。何もドイツ語に限らない。不意に来し方を振り返り、心の奥がざわめき立つことがある。

 しかし、中心はいたるところにある、のである。またいつか、ドイツ語を勉強すればいいだけの話である。人生は、いつの時点でも新たな円を描いていくのだと僕は信じることにしよう。
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