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 僕は酒井法子さんと同年代だ。最初失踪したと聞いて、ちょうど今の季節に失踪した人を探したことがあるのを思い出した。僕は失踪した人を2回探しに行ったことがある。一人は職場の同僚で、もう一人は友人の同級生だった。どちらも見つけ出すことはできなかった。失踪する人は、後から振り返って朦朧と失踪するから、理性や論理でいるべきところにはなかなかいない。職場の同僚は、伊豆の下田の路上で倒れていたところ、警察が保護して見つかった。何で下田なんかにいたのかわからない。以前、僕は下田へ旅行に行ったことがあるが、土産とともに同僚に下田のことを話したような気がする。そんなことが影響を与えたのかどうかもわからない。こちらは必死になって探す。最悪の事態が起こらないか不安だが、過去の2回の経験を振り返ると、あるタイプの失踪は自殺を選ぶことはないように思える。そういえば、探しには行かなかったが、会社の寮の隣人が失踪してしまったこともあった。3人に共通するのは、仕事上の継続的なストレスがあって、どうやら耐性の臨界点を超えてしまったこと。普段の印象は真面目で、責任感があること。

 さて、酒井さんの場合は結局、失踪よりも合目的な逃走であったようだから、こういった失踪には当てはまらない。しかし、類似点は感じる。それは、コントロールを失うということだ。酒井さんは、薬物に接して、正常な自分のコントロールを失った。失踪した人も、それまでの自分のスタイルについてコントロールを失った。僕は思うのだけど、大多数の人間はある状況に置かれれば、みな同じようにコントロールを失ってしまう。だからそれを安易に批判することに僕は違和感や反感を持つ。

 薬物が禁止されているのは、最初コントロールできたように見えたとしても、結局は大多数の人間が自分をコントロールできなくなるからだ。だから、使用する前に禁止するのである。そうだとしたら、合法的な酒や煙草、ギャンブルはどうなるのだろうか。僕は、本当に自分をコントロールするというのは、その状況に陥って、どっぷりつかってみなければわからないと考えている。もともと煙草を吸わない人が自分をコントロールしているかどうかというのは疑問である一方、ヘビースモーカーだったのに煙草を止められた人が本当にコントロールに成功した人間だと考えてしまう。だから、煙草をもともと吸わない人が、吸っている人へ自己管理ができないと批判することにあまり意義を見出せない。状況が変われば、つまり吸わない人が何らかのきっかけで煙草を吸うようになれば、まったく同じ状況に陥るからだ。人間の本質としてはまったく同じである。もちろん、あらかじめ吸わないという選択肢も自己コントロールの一種である。そして、まっとうな考え方だと思う。しかし、どうも僕はそこに不公平というか、違和感を感じてしまう。むしろ、ドロドロの状況に陥ってもがいている人に人間的ないとおしさを感じたりする。

 単に僕が天の邪鬼なのかもしれない。今も考えながら書いているのだけれども、なかなかうまく言い表せない。あるいは、人間と人間の関係について関わってくるのかもしれない。結局、社会のルールや宗教がはぎとられれば、人間関係は互いに対等になる。相手を説得したり、ねじふせるのに、社会的優位性や神の論理が使えないとする。そのとき、相手を納得させる可能性が高いのは、同じ状況を経験したり、同じ状況にいる人間だと思う。ドラッグ中毒の矯正治療について、グループで体験談を語る手法が用いられているのも、こうした理由があるのだろう。そうしたとき、相手の状況の外から相手を批判したり、教えたり、同情することは何だか傲慢な態度に思えてしまう。もちろん、そうした状況の違いを越えて、相手に共感していくのが人間の目指すべき美徳のひとつであるとしても、相手よりも安全な、優位な立場にいる後ろめたさはどのように正当化されていくのだろうか。どのような理屈をつけても、これは完全な不公平のように思う。それが正当化されるのは、対峙する相手が認めること以外にはないだろう。そのために、トリックや詭弁が持ち出される。

 何だかまとまりがなくなってきたのでもう終えるが、酒井さんの件は人間のありようについて色々と考えさせられる。
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どうもこんばんは。
いつの間にか更新していたようで。

そうですね。
ベストセラーになった「禁煙セラピー」にしても著者が元むちゃくちゃなヘビースモーカーでなければ、世の喫煙者たちは聞く耳をもたなかっただろうと思う。

それと、人は説得しようという意図をもって他の人を説得することはなかなかできないような気がします。
けんちょんの言うように「相手の状況の外から」は特に。
少なくとも直接的な言葉では難しい。

人は、自分を説得しようとする意図に説得されるのではなく
説得しようなんて思っていない、その人の佇まい、何気ない言葉、沈黙、生活態度といったものの方にこそ心を動かされるような気がします。

前に見た「夜回り先生」みたいに、本当に生命を賭して少年少女たちを説得しようとやっている人の言葉なんかは別格だけど。

亡くなった河合隼雄さんなんかは、不登校の少年が
「僕、学校行ってへんで!」
と説得しても無駄とばかり食ってかかっても
「学校行くのもええし、行かないのもええなぁ。」
と取り合わなかったそうです。

なんか偉そうですね。すみません。

そうそう、かみさんにCDの話したら
「憶えてくれたんだ」とちょっと驚いてました。

 書き込みありがとうございました。そう、のりP報道の中、衝動的に書き上げてしまいました。

 難しいですね。できれば、説得なんて面倒くさいことしたくない。互いの人格を尊重し合って、必要以上に干渉しないのが楽です。でも仕事や親戚の問題で困った人が出てくれば、説得するべき状況が出てくる。確かに、説得しようとする気持ちが強いと、相手に見透かされて、うまくいかないと思う。

 そんなとき、語っている言葉の内容よりも、相手の物腰とか声の調子とか、non-verbalものに共感や反感があったりするんでしょうね。

 もうひとつ。説得したいけど、説得されてしまう相手を見るのもいやだ。ハムレット的矛盾。相手が自分の意思で変えてくれるのがベストだから、やっぱりおっしゃるとおり、こちらは無言で気づかせるのがいいんでしょうね。うーん、書いててまたわからなくなってきました。

 先日はありがとうございました。CD、まだ興味がありましたらまた次に。 
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